陳情を出してみる(としたら):一市民が市政を動かす方法

※この記事は、私がまだ実際に陳情を出してはいない。だが「出すとしたら、どうなるのか」を、京都市会の制度を一つずつ確かめながら辿ってみた、思考実験の記録である。いずれ本当に出すための、予行演習だと思っていただきたい。


前回、私はこう書いた。

「誰が見ているかを、市すら数えていない議場で、黒字の使い道が決まっていく」と。

書きながら、自分で自分に問い返していた。

では、お前はどうなんだ。

ブログで偉そうに分析を垂れ流しているお前自身は、その議場に対して、何かしたことがあるのか——と。

ない。何もしていない。

私は、回覧板を読み、予算書をこねくり回し、議事録を漁ってきた。だが、それは全部「見る」側の行為だ。市政に対して、私はまだ一度も「働きかけて」いない。

観察者であって、当事者ではない。

それでいいのか。

そう思い立って、私は調べ始めた。一市民が、京都市政に直接ものを言う方法を。


其の一:「請願」と「陳情」という二つの扉

調べてすぐ、二つの言葉に行き当たった。

請願(せいがん)と、陳情(ちんじょう)である。

どちらも、市民が市会に対して「こうしてほしい」と文書で申し出る制度だ。法人でも、外国籍の人でも、誰でも出せる。

二つの違いは、たった一点。

請願には、紹介議員が必要だ。市会議員の誰かに「この願い、もっともだ」と認めてもらい、紹介者になってもらわねばならない。

陳情には、それが要らない。議員を通さず、市民が直接、市会に文書を出せる。

つまり——陳情は、議員のコネが一切なくても、たった一人の市民が、いきなり市会の扉を叩ける制度なのだ。

私は驚いた。そんなものが、あったのか。


其の二:陳情は、どこまで「効く」のか

ただし、ここで冷静にならねばならない。

「出せる」ことと「効く」ことは違う。

調べると、こういう仕組みだった。

提出された陳情は、所管の常任委員会に送られ、請願と同じように審査される。議員たちが、その内容を読み、議論する。

ただし——陳情には「採択」「不採択」という結論が出ない。

一方、請願は違う。採択・不採択がきちんと議決され、採択されたもののうち市長が措置すべきと認めたものは、執行機関に通知される。つまり、請願のほうが、市政を実際に動かす力は強い。

整理すると、こうだ。

陳情は、紹介議員が要らない代わりに、結論が出ない。出しやすいが、弱い。

請願は、紹介議員が要る代わりに、市政を動かしうる。出しにくいが、強い。

なるほど、よくできている。市民の声を聞く間口は広く開けつつ、実際に行政を動かすには議員という関門を一つ通させる。

では、まず私のような「コネなし一市民」は、どちらから始めるべきか。

答えは明白だ。陳情である。

結論が出なくとも、私の声は、委員会の議員たちの目に触れる。議事録に残る。それは、何もしないよりも、はるかに「ある」ことだ。


其の三:何を書くか——たった一つの願い

次に、中身である。

調べると、陳情書に決まった用紙はない。だが、書くべきことは決まっている。

提出年月日。あて先(京都市会議長)。陳情の趣旨と理由。そして、自分の住所と氏名。

ルールが一つあった。「一つの陳情書で扱う趣旨は、一つの事項のみ」。

あれもこれもと欲張ってはいけない。願いは、一つに絞れ、ということだ。

これは、むしろありがたい制約だ。

では、私は何を願うか。

このブログで書いてきたことを、思い返す。財政難。固定費の首枷。観光が市税を生まない構造。そして——市民が議会を見ていないこと。

最後のものが、引っかかった。

第5記事で私は、「議会の中継を、何人が見ているのか、その数字すら公表されていない」と書いた。

ならば、こう願えばいい。

「京都市会の本会議・委員会のインターネット中継について、視聴回数を集計し、公表してください」と。

地味な願いだ。世界は変わらない。

だが、これは私がこのブログで実際に「無い」ことを確かめた、具体的な欠落だ。身の丈に合っている。そして、もし実現すれば、「市民がどれだけ議会を見ているか」という、民主主義の体温計が一つ生まれる。

願いは、一つでいい。これにしよう。


其の四:出す——オンラインという拍子抜け

さて、書いた陳情書を、どうやって出すか。

私は身構えていた。市役所の窓口で、平日の昼間に、堅い顔の職員に書類を渡すのだろう、と。仕事を持つ身には、それだけで大きな壁だ。

ところが。

京都市会は、陳情をオンラインで受け付けていた。電子申請フォームがある。メールアドレスさえあれば、家から、夜中でも、出せる。

拍子抜けした。

私が「市民参加は敷居が高い」と思い込んでいたのは、ただ調べていなかったからだ。扉は、とっくに自動ドアになっていた。気づかなかったのは、私のほうだ。


其の五:一つだけ、覚悟すること

ただし、出す前に、一つ覚悟すべきことがある。

請願・陳情を出すと、提出者の住所と氏名は、請願文書表という形で記載され、一般に公開される。(電話番号などの連絡先は公開されない)

つまり、「京都市〇〇区の誰々が、こういう願いを出した」という事実は、公の記録になる。

これは、軽いことではない。匿名でブログを書くのと、実名で市政に願いを出すのとでは、覚悟が違う。

しかし——と、私は思う。

民主主義とは、本来そういうものではなかったか。

自分の名で、自分の住む街に、自分の願いを言う。顔の見える一人として、声を上げる。匿名の安全地帯から評論しているだけの私が、一歩、当事者の側に踏み出すということだ。

その覚悟も含めて、これは「予行演習」なのだ。


締め:見る人から、出す人へ

ここまで、私は「陳情を出すとしたら」を、一つずつ辿ってきた。

分かったことは、シンプルだ。

一市民が京都市政に直接ものを言う扉は、思っていたよりずっと低い位置に、ずっと大きく開いていた。紹介議員が要らない陳情があり、オンラインで出せ、願いは一つでいい。

足りなかったのは、制度ではなかった。

私の、一歩だった。

この記事は「出してみた」ではなく「出すとしたら」で終わる。まだ、私は出していないからだ。

だが、ここまで辿ってしまった以上、もう後には引けない。

近いうちに、私は本当に、あの陳情を出すだろう。「議会中継の視聴回数を公表してください」という、地味で、しかし確かな、一市民の願いを。

そのときは、また報告する。「出してみた」と、過去形で書ける日のことを。

回覧板から始まった私の旅は、ようやく、見る人から、動く人へと変わろうとしている。

そしてそれは、この記事を読んでいる、あなたにもできることだ。


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