前回まで、私は京都市の財政を四つの記事にわたってこねくり回してきた。
隠れた赤字。固定費の首枷。稼げない都市の構造。
そして、20年以上の苦境のすえ、市はようやく3年連続の黒字にたどり着いた。
めでたい。実にめでたい。
しかし、ここで新たな問いが立ち上がる。
その黒字、いったい誰のものなのか。
其の一:3年ぶりの「使えるお金」
おさらいをしておこう。
平成13年度から続いた京都市の収支不均衡は、20年以上にわたって「特別の財源対策」という名の自転車操業で覆い隠されてきた。
それが令和4年度、ついに黒字に転じた。令和5年度は88億円、令和6年度は58億円。3年連続の黒字である。
黒字とは何か。家計で言えば、その月、使わずに残ったお金のことだ。
つまり、市の財布に「自由に使えるお金」が、久々に生まれたということだ。
そして、自由に使えるお金が生まれると、必ず論争が起きる。
このお金を、何に使うのか——と。
其の二:市の答え——「将来世代に返す」
市の答えは、明快だった。
借金を返す。
第4記事で述べたとおり、京都市には「過去負債」という特殊な借金がある。赤字を埋めるために、将来の借金返済用に積み立てていた基金(公債償還基金)を、計画外に取り崩してきた。その取り崩した額が、令和6年度末で435億円残っている。
市は、この過去負債を、年35億円ずつ返していくと決めた。完済は令和20年度、2038年である。
市はこう説明する。「安定した財政運営」「将来世代に配慮した財政運営」を進める、と。
これは正論だ。
借りたものは返す。それも、自分たちが使った金のツケを、将来の子どもたちに押し付けない。実に筋が通っている。
文句のつけようがない。
……ように見える。
其の三:野党の答え——「今、苦しむ市民に」
しかし、議会には別の声がある。
最大野党である日本共産党市会議員団は、2026年度予算に対して「組み替え提案」を出した。要するに「黒字の使い道が違う」という対案である。
彼らの主張はこうだ。「市民生活第一の徹底」。
具体的には——物価高対策。ケア労働者の賃上げ。国民健康保険料の値上げ中止(なんと5年連続で上がっている)。敬老乗車証の負担軽減。18歳までの医療費無料化。中学校給食費の無償化。
つまり、「将来世代」ではなく「今、ここで苦しんでいる市民」に使え、という主張だ。
これも正論だ。
20年後に借金がきれいに片付いていても、その前に今日の暮らしが立ち行かなくなれば意味がない。今飢えている者に、20年後の財政の話は、あまりに遠い。
こちらも、文句のつけようがない。
其の四:板挟みの正体
ここで、私ははたと困ってしまう。
市の言い分も正しい。野党の言い分も正しい。
「将来世代に借金を残すな」も正論。「今の市民を救え」も正論。
正論と正論が、正面からぶつかっている。
では、なぜ両方やらないのか。両方やればいいではないか。
答えは、無情なほど単純だ。
金が足りないのだ。
令和6年度の黒字は58億円。過去負債は435億円。福祉拡充の要求を全部足せば、これもまた軽く数十億円を超える。
つまり、こういうことだ。
黒字という「使えるお金」は、過去負債の返済だけでもう手一杯で、福祉拡充まで回す余裕などない。逆に、福祉拡充に全部回せば、借金返済は止まる。
58億円という黒字は、「将来世代」と「今の市民」の両方を救うには、あまりにも小さい。
これは「善と悪」の戦いではない。「正論と正論」の戦いだ。そして、その戦いを裁くべき黒字が、小さすぎる。
どちらを選んでも、どちらかが泣く。
それが、京都市が立たされている板挟みの正体である。
其の五:誰が見ているかを、市すら数えていない
さて、ここまで読んで、あなたはどう思っただろうか。
「将来世代が大事だ」と思ったか。「いや、今の市民だ」と思ったか。
どちらでもいい。大事なのは、あなたが「考えた」ということだ。
ところが——だ。
この、市政の根幹にかかわる「正論 vs 正論」の対決は、いったいどこで戦わされているのか。
市議会である。
京都市会は、けっして閉じてはいない。むしろ開かれているとすら言える。本会議も委員会も、インターネットで生中継され、録画も残る。KBS京都のテレビ中継もある。傍聴もできる。
仕組みは、ちゃんとある。
では、その中継を、いったい何人の市民が見ているのか。
私は調べた。視聴回数。傍聴者数。再生数。
そして、気づいた。
その数字が、どこにも見当たらないのだ。
公的に集計され、公表されている形跡がない。何人が傍聴に来たのか。中継を何人が見たのか。市は、それを数えていないか、少なくとも市民に示してはいない。
これは、奇妙なことではないか。
これだけの仕組みを整え、これだけの中継を流しておきながら、「誰がそれを見ているのか」を、市すら把握していない(あるいは、公表しない)。
つまり、こういう光景が浮かび上がる。
誰が見ているかを、市すら数えていない議場で、58億円の黒字の使い道が——「将来世代」と「今の市民」の運命が——静かに決まっていく。
中継は流れている。だが、その先に視聴者がいるのかどうかは、誰も知らない。
がらんとした議場の映像が、誰もいない部屋のテレビに、延々と流れ続けているのかもしれない。
締め:黒字は、踏み絵である
黒字が出た、というニュースは明るい。
しかし、黒字とは、踏み絵でもある。
それを何に使うかで、その自治体が「将来」と「現在」のどちらを向いているかが、否応なく露わになるからだ。
そして京都市は今、その踏み絵の前に立たされている。58億円という、小さすぎる踏み絵の前に。
どちらを踏むのか。
それを決めるのは、本来、市民であるはずだ。
だが、その議論を、市民はほとんど見ていない。見ていないどころか、「何人が見ているか」すら、誰も数えていない。
次回は、この「見られていない議会」で、私たち市民が何をできるのか——傍聴とは、議員へのはたらきかけとは、そして一票とは何か——を考えてみたい。
回覧板から始まった私の市政めぐりも、いよいよ「市民にできること」の話に入る。
このシリーズの他の記事
- 第1回:京都市はなぜ財政難なのか
- 第2回:古都税紛争1985:寺社が門を閉ざした日
- 第3回:宿泊税という落としどころ
- 第4回:京都市の予算書を読んでみた(前編・後編)
- 第5回:京都市議会では何が議論されているのか(本記事)

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