京都CDCとは何者か? 全国初の府市共同センターを、たぬきが見張る

秋の京都は忙しい。

人間どもは紅葉の色づきを調べ、宿を押さえ、混雑予想に一喜一憂する。ところが、自分の鼻の具合となると、ずいぶん話が違う。少々の咳なら気のせいにして、そのまま電車へ乗り込んでしまう。

ウイルスに遠慮を期待してはいけない。

そんな折、「京都CDC」なる新顔が現れた。

京都府と京都市が10月26日に共同で設置した「京都感染症対策センター」である。京都大学、京都府立医科大学も加わり、感染症情報の分析や、医療機関との情報共有を進めるという。府と市が共同で地方版CDCを設けるのは全国初だ。

全国初。

人間はこの四文字が好きだ。役所の資料に「全国初」と書いてあると、たちまち話が立派に見える。

しかし、たぬきは看板より中身を見る。豪華な料理屋に化けても、台所に油揚げしかなければ宴会は成立しないのである。

ウイルスは市境で立ち止まらない

京都府と京都市は、同じ京都を名乗りながら別々の行政組織だ。

府には府の研究所があり、市には市の研究所がある。保健所、病院、学校、高齢者施設も、それぞれの経路で情報を持つ。

平時なら、それでも何とかなる。

だが感染症は、行政の組織図を読まない。

京都市内でひとしきり暴れた後、「ここから先は府の管轄だから引き返そう」などと考える殊勝なウイルスは、たぶん一匹もいない。人間の都合で引かれた線を、律義に守る理由がないからだ。

ならば、府と市が同じ情報を見て、大学や医療機関ともつながる。これは筋のよい話である。

今まで別々の窓から町を眺めていた者たちが、ようやく同じ屋根へ上がった。あとは、互いの視界を自慢するのではなく、どこで煙が上がっているかを一緒に探せばよい。

ちょうどインフルエンザが騒ぎ始めた

京都府では、10月15日にインフルエンザの報告数が府全体で注意報レベルに達したと発表された。第41週の定点当たり報告数は10.97。京都市を含む複数の保健所管内で基準値を超えていた。

その後、第42週には府全体で注意報レベルを下回ったものの、山城南では反対に報告数が増え、注意報レベルとなった。数字は上がったり下がったり、地域によっても違う。感染症が府全体の平均だけでは読めない好例だ。

さらに京都府は10月22日、急性呼吸器感染症、いわゆるARIの情報も更新した。

新しい組織のお披露目には、いささか物騒な追い風である。

だが、京都CDCの値打ちを確かめるには格好の機会でもある。

感染者が増えた後に数字を並べるだけなら、これまでと変わらない。「流行している」と言われても、熱を出して布団に潜り込んだ人間には、もはや手遅れだ。

必要なのは、流行を早くつかみ、市民が動ける形で知らせること。

ここが肝心である。

グラフを作って満足されては困る

京都CDCは、感染症情報の収集と分析、医療機関とのネットワークづくりを担う。

なるほど、立派な仕事だ。

ただし、集めた数字を美しいグラフにして、会議室の画面へ映すだけでは困る。グラフというものは便利で、何も解決していなくても、仕事をした気分だけは盛大に与えてくれる。

たぬきの腹囲を毎日測って折れ線グラフにしたところで、団子を控えなければ腹は引っ込まない。それと同じ話だ。

京都CDCが市民の役に立つには、分析の先が要る。

  • どの地域で感染が増えているのか
  • どの年代に広がっているのか
  • 学校や高齢者施設に異変がないか
  • 医療機関の受け入れ余力はあるのか
  • 市民は、いつ何をすればよいのか

これらを、早く、わかりやすく、公表する。

専門家だけが読める資料を奥深くへ置いて、「公開済み」と胸を張るのでは足りない。市民がスマートフォンで見て、自分の暮らしに引き寄せられるところまで届けてほしい。

市民が見るべき三つの数字

京都CDCが働いたかどうかを測るなら、立派な理念より三つの数字を見たい。

1.異変から公表まで何日かかったか

感染の増加を把握してから、医療機関や市民へ知らせるまでの時間。

ここが縮まらなければ、府市連携の御利益は薄い。情報が役所の廊下を往復している間に、ウイルスは市バスより軽快に町を走り回る。

2.公表後に何が動いたか

学校、病院、高齢者施設などへ、どんな対応を求めたのか。

情報提供だけで終わったのか、実際の予防や受け入れ体制の変更につながったのか。この違いは大きい。

鐘を鳴らしただけで火が消えるなら、消防車など要らないのである。

3.流行後に何を改善したか

対応が遅れた地域はなかったか。必要な情報が届かなかった施設はなかったか。市民に伝わらない表現はなかったか。

流行が収まった後こそ検証の時間だ。

喉元を過ぎた途端に資料を棚へ戻してしまえば、次の冬も同じ芝居を見る羽目になる。

「府市共同」は責任まで共同にできるか

京都CDCの最も大きな挑戦は、情報を一か所へ集めることではない。

府と市が、同じ情報から一つの判断を下せるかどうかだ。

行政同士が協力すると、会議は増える。参加者も増える。資料のページ数まで景気よく増える。ところが、責任の所在だけは煙のように薄くなることがある。

これは実に人間らしい芸当だ。

「府の担当である」

「市の所管である」

「大学の専門的判断を待つ」

そうして互いに美しく譲り合っているうちに、感染症だけが勇ましく前進する。そんな喜劇は御免こうむりたい。

共同組織を名乗るなら、共同で判断し、共同で動き、共同で結果を説明するところまで引き受けてもらいたい。

京都CDCは、新しい看板で終わるのか

京都府と京都市が壁を越えようとした。その一歩は評価してよい。

だが、組織の創設は成果ではない。

市民へ情報が早く届いたか。医療や学校が早く動けたか。感染拡大を抑えられたか。そして、失敗を次へ生かしたか。

そこまで見て、ようやく京都CDCの値打ちが決まる。

京都は古いものを大切にする町だ。

寺も庭も祭りも、長く残れば味わいが出る。だが、行政の縦割りまで文化財のように保存する必要はない。

ウイルスには府境も市境もない。

ならば対策する側も、縄張りの内側で腕を組んでいる場合ではあるまい。

全国初という旗は上がった。

さて、その旗の下で誰が動き、何が変わるのか。

私はひとまず、町の掲示板と役所の発表を見張ることにする。たぬきは夜目が利く。新しい看板が光っているだけなのか、その奥で本当に人間が働いているのか、そのくらいは見分けられるつもりだ。

出典