京都市の来年度予算づくりが始まった。

令和9年度予算である。

こう書いた瞬間、たいていの人は「また市役所の紙の束か」と言って、湯呑みを持ったまま遠い目をする。わかる。予算編成方針などというものは、読んでいるだけで、まぶたの上に薄力粉をはたかれるような眠気が来る。

しかし、油断してはいけない。

役所の文書というものは、眠そうな顔をして、こちらの財布に手を伸ばしてくる。こちらも屋根裏から目を細めて眺めているだけでは、いつの間にか肝心なところを見落とす。

これは市役所の紙ではない。市民の財布である。

子育てに回すのか。市バスに回すのか。観光混雑へ回すのか。空き家対策へ張るのか。福祉を厚くするのか。古くなった橋や水道や施設を直すのか。

どれも大事で、どれも金が要る。

そして困ったことに、京都市の財布は、見た目ほどふくらんでいない。京菓子の箱かと思って開けてみたら、底に請求書が一枚寝ていた、という感じである。

京都市は10月2日、令和9年度予算編成方針を公表した。通知には、前例踏襲を排した「突き抜けた」挑戦、局の垣根を超えた「横串」の政策統合、官民共創、民間投資の誘発といった言葉が並んでいる。

たいへん勇ましい。

掛け声だけ聞けば、いまにも市役所の屋根から幟が立ちそうである。

だが、こちらは素直に拍手するほど人がよくない。

「突き抜けた」と聞けば、どこを突き抜けるのかと聞きたくなる。「横串」と聞けば、誰の縦割りに刺すのかと聞きたくなる。「官民共創」と聞けば、民に任せるふりをして責任だけ薄めないかと鼻を利かせたくなる。

ところが、そのすぐ横に、実に渋い一文が置かれている。

京都市の財政は一定の健全化が進んでいるものの、社会福祉関連経費、人件費、委託料、資材単価、金利などの行政コストが増えており、「決して余裕のある財政状況ではない」というのである。

つまり、こういうことだ。

京都市は「攻める」と言っている。

同時に、「財布は軽い」とも言っている。

片手に采配、片手に空のがま口。

おいおい、勇ましい顔をするなら、まずそのがま口の中身を見せてもらおうではないか。

これが令和9年度予算の入口である。

京都市は、もう財政危機を脱したのか

京都市の財政は、たしかに一時期より改善している。

市税収入は堅調で、市債残高も縮減が進んできた。以前のように「このままだと財政再生団体に転落しかねない」と言っていた頃に比べれば、帳場の空気はだいぶ明るい。

だが、帳場が明るくなったからといって、金庫の中に小判がざくざく湧いたわけではない。

今回の通知は、その点を妙に正直に書いている。

市税収入が増えても、その多くは義務的な経費に吸われていく。高齢化で社会福祉関連経費は増える。物価高で委託料や資材単価は上がる。人件費も金利も軽くない。

家計で言えば、給料は少し増えた。だが、食費も修繕費も医療費もローン金利も上がった。財布を開けて「増えたはずなのに、なぜ軽い」と首をかしげる、あの感じである。

ここで市民がうっかり「黒字になったなら、もう大丈夫ですね」と言うと、役所の帳場はにっこり笑うかもしれない。

だが、にっこり笑った相手の袖口から、次の請求書が覗いていることはよくある。

京都市の黒字化は、めでたい。

めでたいが、めでたさのあまり舞い上がると、足元の畳を踏み抜く。

財政危機を脱したことと、何でも買える身分になったことは、まったく別の話である。

今回の方針は、三つのことを言っている

今回の予算編成方針は、役所の文書らしく少々背筋を伸ばしているが、言っていることは三つに絞れる。

第一に、縮み志向になるな、ということ。

京都市は「今と未来を見据えた京都の本質的価値の拡充」と言っている。真に必要な施策や効果が高い事業には、縮み志向に陥らず、積極果敢に予算を講じるという。

ここは大事である。

財政危機を経験した自治体は、ともすれば削ること自体が立派なことのようになってしまう。だが、市役所は断捨離道場ではない。暮らしをよくするための道具である。必要な投資まで削れば、財布は守れても町が痩せる。痩せた町は、案外あとで高くつく。

ただし、ここで言う「本質的価値」とは何か。

この言葉は便利である。あまりに便利なので、何でも包める風呂敷になる。観光も、文化も、子育ても、交通も、福祉も、みんな「京都の本質的価値」と言えてしまう。

だからこそ、こちらは聞かねばならない。

その風呂敷の中に、本当に市民の暮らしは入っているのか。

第二に、過去負債を返せ、ということ。

京都市は、新京都戦略に掲げた財政運営目標として「特別の財源対策を講じない予算編成」と「過去負債の返済」を明記している。

ここは地味だが、逃げてはいけない。

過去負債とは、ざっくり言えば、かつて財布の穴を埋めるために将来用の金へ手をつけた分である。昔の宴会代を、まだ見ぬ子どもに払わせるわけにはいかない。そこは人として、いや自治体として、襟を正すところである。

第三に、官民共創と成果志向である。

民間の資金、知恵、起業家スピリットを呼び込む。20年、30年先を見据える。部分最適ではなく全庁的に考える。成果が上がっていない事業は見直す。

言葉としては、どれも正しい。

ただし、正しい言葉ほど、実行すると足の小指をぶつける。

成果が上がっていない事業を見直すとは、誰かが慣れ親しんだ予算を削るという意味でもある。局をまたいで横串を刺すとは、縦割りの畳をめくるという意味でもある。民間投資を呼ぶとは、役所だけで抱え込まない代わりに、公共性の線引きを今まで以上に問われるという意味でもある。

「共創」という言葉は耳にやさしい。

だが、耳にやさしい言葉ほど、財布にはきびしい場合がある。民間の力を借りるのはよい。しかし、儲かるところだけ民間に渡し、儲からないけれど必要なところだけ市民に残すのなら、それは共創ではなく、都合のよい分担である。

言葉は美しい。

実務は、だいたい泥の上を歩く。

市民が見るべきは「何を増やしたか」より「何を選んだか」

予算が出ると、多くの記事は「何にいくら付いたか」を見る。

それは必要である。子育てに何億円、交通に何億円、観光に何億円。数字がなければ政策は霞である。霞を食って生きられるのは、よほど風流な者だけだ。

しかし市民が本当に見るべきは、金額の大小だけではない。

限られた財布で、何を選び、何を後回しにしたかである。

子育て予算を増やすなら、若い世帯の流出を止める意思があるということだ。

交通へ金を入れるなら、観光客だけでなく市民の生活の足を守る意思があるということだ。

空き家対策へ張るなら、町内の空洞化を単なる不動産問題ではなく、防災、防犯、地域のつながりの問題として見るということだ。

空き家が増えると、町は静かになる。

静かな町は一見よい。だが、夜に灯りのつかない家が増え、回覧板の行き先が減り、隣の顔が見えなくなる静けさは、少し違う。あれは風情ではなく、町内の体温が下がっている音である。

福祉を厚くするなら、高齢化の現実を見て見ぬふりしないということだ。

インフラへ金を入れるなら、今日の見栄えより明日の安全を選ぶということだ。

反対に、何かを増やせば、何かを増やせない。

これが予算である。

京都市政は、全員を満腹にする魔法の鍋ではない。少ない米をどう炊くかで腕が問われる台所である。焦がせば怒られるし、薄めすぎれば味がしない。

「市長が最終決定する」と書かれている意味

今回の通知で目に留まるのは、すべての予算について、市長が責任をもって最終的な採否と規模を決定すると明記されている点である。

当たり前のようで、これはなかなか政治的な一文である。

各局が積み上げた要望を、最後は市長が選ぶ。つまり令和9年度予算は、松井市政がどこに腹を括るかを示す帳簿になる。

ここは、たぬきの耳も立つ。

なぜなら「最後は市長が決めます」と書く以上、「局が言ったから」「前からそうだから」「国の制度だから」という逃げ道は狭くなる。選ぶということは、選ばなかったものの責任も引き受けるということだ。

ここで問われるのは、「よいことを全部やります」ではない。

それは選挙公報では言えても、予算書では言えない。

予算書はもっと冷たい。愛想笑いをしない。

金額が付いたものは本気である。金額が付かなかったものは、少なくとも来年度の優先順位では下がったということだ。

市民にとって大事なのは、市長の言葉より、予算の行き先である。

どこに金を張ったか。

どこを我慢させたか。

その我慢について、正面から説明するか。

「やります」と言った政策より、「今回は見送ります」と言った政策の方に、本音が出ることもある。

そこに市政の体温が出る。

有頂天市民としての見立て

令和9年度予算で、京都市が本当に見るべき軸は五つある。

見るべき軸 市民にとっての意味
子育て・教育 若い世帯が京都に残れるか
交通 市民の生活路線が観光混雑に飲まれないか
空き家・住宅 町内の空洞化を止められるか
福祉 高齢化を支える基盤を維持できるか
インフラ・防災 壊れてから慌てる町にならないか

この五つは、どれも派手ではない。

だが、派手でないものほど市民生活に近い。

観光地の華やかさは、写真になる。だが、保育園の入りやすさ、バスの来やすさ、空き家の減りやすさ、水道管の壊れにくさは、写真になりにくい。

写真になりにくいものほど、暮らしを下から支えている。床下の柱のようなもので、普段は誰も褒めないが、腐れば家ごと傾く。

市政の困ったところは、写真映えする事業ほど説明しやすく、床下の柱ほど後回しにされやすいところである。

だが、床下の柱を笑う家主はいない。笑っている間に家が傾く。

京都市が令和9年度予算で問われるのは、観光都市としての見栄えだけではない。

生活都市として、どこまで腰を据えるかである。

財布が軽い町ほど、本音が出る

金が余っている時の予算は、あまり面白くない。

あれもこれもできます、と言えばよいからだ。

面白いのは、財布が軽い時である。

何に使うか。

何を後回しにするか。

誰に我慢を頼むか。

その選択に、町の本音が出る。

京都市は今、財政危機のどん底からは抜けた。だが、余裕しゃくしゃくの大旦那になったわけではない。むしろ、ようやく借金取りの足音が少し遠のいたところで、古い家の修繕と、子どもの学費と、親の介護と、商売道具の買い替えを同時に考えているような状態である。

こういう時、人も町も本性が出る。

見栄に金を使うのか。

暮らしの土台に金を使うのか。

それとも、耳ざわりのいい言葉を飾って、帳簿の端をそっと閉じるのか。

こちらとしては、帳簿の端を閉じられる前に、すっと指を差し入れておきたい。

「その一行、もう少し詳しく」と言うためである。

だからこそ、令和9年度予算は見る価値がある。

どの政策に金が付き、どの政策が言葉だけで終わるのか。

「突き抜けた挑戦」と言うなら、どこで突き抜けるのか。

「横串」と言うなら、どの縦割りを貫くのか。

「官民共創」と言うなら、公共性をどこで守るのか。

有頂天市民としては、予算案が出たらもう一度、財布の中身を広げて見るつもりである。小銭の音まで聞くつもりである。

京都市の財布は軽い。

しかし、軽い財布でも、何を買うかで町の未来は変わる。

さて市長。

その財布は、誰のために開くのか。